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光秀=天海?「かごめかごめ」を考えよう!!!


唐突だが、皆さんは「かごめかごめ」についてはご存知だと思う。
一説には、南光坊天海に対する(天海が作った?)歌であるとか・・・

そして、やはり唐突なのだが、今回の話はこの「かごめかごめ」の歌に隠された南光坊天海の謎解きを行いたい。

なお今回は、明智家の子孫にあたる方(?)の説も一部拝借している。

(サイトでUPしたことにより不都合が生じた場合は、お手数ですがBBS等へ書き込みか、あるいはメールで知らせていただければと思います)

なお今回、南光坊天海=明智光秀という前提で、話を進めていきたい。
(じゃないと、コラムにならない・・・)

これに、私の私見を交えて、今回考察としたいが・・・

うーむ、これまた謎が謎を生む内容なんだよなあ・・・

まあ、とにかく走ってみようではないか!(^^;)

「かごめかごめ」

かごめかごめ
かごの中の鳥(鳥居?)は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だ〜れ?



こんな感じだ。
1個ずつ、内容を考えると・・・

1.「かごめかごめ」

「かごめ=籠目」
籠目と言えば、以下のものを言う。

籠目
「籠目」



で、徳川家・明智家に関係ある地名をたどると、大きな籠目ができる。

日本地図の「籠目」(ショボい)
日本地図の「籠目」を分かり辛いので(^^;)拡大

その6ヶ所は北から時計回りに・・・
佐渡金山、日光東照宮(か、日光明智平)、江戸城、駿府城、土岐、明智神社
→新潟県佐渡市、栃木県日光市、東京都千代田区、静岡県静岡市葵区、岐阜県土岐市(あるいは、岐阜県恵那市明智町、もしくは仮に「明智城」であれば、岐阜県可児市。いずれにしても、岐阜県南東部のこと)、福井県福井市の6地点

つまり「かごめかごめ」の部分は、この日本地図に現れた大きな「籠目」のことである。

「2.かごの中のとりは」

ここが苦しいのだが、上記かごの中の「とり」=「土岐=明智光秀」

あるいは「籠の中の鶏」というのは、籠の中心にいる人、を連想させる。
この「かごの中のとりは」が「籠の中の鳥居は」と言っているのであれば・・・
本能寺の変に至った、一つの経緯が仮説となるのではないか?と考えている。

と言うのも、私自身、本能寺の変については「信長以外全員共謀説」を唱えているが、その根拠(の一部)としたいのが、実は武田攻めである。
「かごめかごめ」の部分において、日本地図に現れた大きな「籠目」ができるというのは先ほど触れたが、この巨大な「籠目」の中心が、現在の長野県中央部〜山梨県北西部になる。

そう、武田家の領土だ。
この武田攻めの総大将は織田信忠。
もちろん、この武田征伐には徳川家康も関与(駿河へ出兵)している。

それで、「籠(要するに「竹」で出来ている)の中の鳥居は〜」であれば・・・
例えば“竹垣に囲まれた神社や寺”(ウィキペディアより)を意味するなら・・・
「籠の中心にいる人(物)」であれば、まさしく織田信忠が(おそらく信長の命令で)焼き討ちした「恵林寺」(山梨県甲州市)がこの籠の中心となる!
つまり「恵林寺で起こった虐殺」を契機に、危機感を感じた武将達が、本能寺の変を起こしたのではないか・・・

説明を急ぎすぎた。
この時の武田征伐の主な織田家の編成を見てみよう。

<信忠軍>
総大将:織田信忠
配下:川尻秀隆、森長可、滝川一益(軍監)他

<信長直率>
総大将:織田信長(って、信長が美濃を出ようとしたとき、既に武田勝頼の首は届いていたから、戦闘に参加していないんだけどね)
配下:明智光秀丹羽長秀細川忠興堀秀政蒲生賦秀(蒲生氏郷)高山右近筒井順慶

<徳川軍(駿河方面)>
総大将:徳川家康

青字→本能寺の変に関与した疑いがある武将。
信忠はかなり微妙だが、私は関与したと思っている。
黄色→本能寺の変に、何らかの形で関与「してしまった疑いのある」武将
丹羽長秀や蒲生氏郷(奥さんが信長の娘)は、無いかもしれないが・・・


残念だが、この頃秀吉は別件対応(毛利攻め)をしていた関係で、ここにはいないが・・・

細川忠興→父の細川藤孝が、本能寺の変に関与したと言われている。

堀秀政→徳川家康を堺にて接待した後、備中攻めをしていた秀吉の下へ向かう。
実は堀秀政自体は信長の小姓を務めていたが、森蘭丸にその座を奪われると、織田家の中で台頭していた秀吉に接近する。
秀吉恩顧の大名となるが、実は織田家への愛着は人一倍あったようだ。


この2人にも、高山右近、筒井順慶など、本能寺の変に関与した(結果的にさせられていそうな)人物が名を連ねる。
つまり、この諸将のうちの誰かが、光秀(そして徳川家康)から書状を預かり、その書状には秀吉も本能寺の変について、準備するように伝えるような内容が書かれていたとしても、不思議ではない。
・・・実際、この頃は信長が「本能寺に」宿泊するかどうか、知っていた者がいなかったとしても、協力を促すような内容の書状(武田征伐において、信長がどんな虐殺行為を起したのかを誇張した報告書)を送っていた可能性はある。
あるいは、秀吉が先に手引きしておいて、明智光秀(徳川家康)に協力を求めたのかもしれないが・・・

ともかく、秀吉が信長に援軍要請したとき、秀吉は3万の軍勢を率いていた。
これに対して毛利家はおよそ1万5千をようやくそろえたところだった。
つまり、秀吉からすれば「援軍の必要が無い」はずなのに、信長に援軍を要請しているのだ。

要するに、援軍要請は「どういう根拠なの?」と言いたいが、とりあえずこの話はここまでとしよう。

さて、この武田征伐が終わった際だが・・・

1. 家臣一同がいる席で

光秀が「我らも骨を折った甲斐があった」みたいに言ったところ、信長から「お前が(大軍を率いておいて)一体何をしたんだっ!」と言われ、折檻を受けたのは有名な話である。
まあ、光秀自身は「信長の家臣(信忠も含む)一同が力を合わせたから」武田家を滅ぼすことができて良かった、と言いたかっただろうが、実際勲功一番は、2ヶ月で武田家を滅ぼした信忠であろう。
気を遣って「信忠様は、骨を折られた」みたいに言えば、多分違った結果になっただろう。
ともかく、こういった「恥をかいた」ということについて、本能寺の変が起こるきっかけとなった“怨恨説”というのは十分ありえる話だが・・・

2. 武田家臣団に対する仕打ち

大河ドラマや漫画で信長を扱った作品において、信長の命で武田家に関する人々を片っ端から殺していたのを目にしたが・・・
それが事実かどうかはさておき、実際織田家に協力した小山田信茂まで、信長は殺してしまっている。
織田方の殺戮はすさまじく、武田方が逃げ込んだ恵林寺は、諸将の引き渡し拒否を理由に焼き討ちされている。
また、武田領の領民には、黄金を与えて武将の首を献上させている。

もっとも、長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、新府城築城・武田軍団再編成(将来の織田・徳川連合軍の侵攻に備える)のため、領国の国人に無理な軍資金を課した。
負担増にあえぐ国人(=領民)は、織田家の侵攻が始まった際、武田家に対し「いっそのこと滅んでしまえ」と陰口を言った者もいるとか・・・
要は、武田家が2ヶ月で滅んでしまったのは、領民から見放されたから、という部分も大いにあるのだが、今回のコラムとは関係無いのでこれまでとする。

私自身も本能寺の変の「ファクターの一部」とした武田征伐だが・・・
要するに、武田征伐に係る、将来の遺恨を残さないため、武田方諸将を次々に殺害していったやり方などが、一部過激すぎたと見られる部分がある、ということ。

これを見た明智光秀らが「織田政権になったとしても、長期政権になりえないから」という理由で、信長を倒そう、と思っても不思議は無い。

かなり長い話になってしまったが、この「恵林寺の虐殺をきっかけとして」「かごの中のとり(鳥居)は」と私は連想するのである。

しかし、実際恵林寺が「竹垣で覆われていたのかどうか」というのを裏付ける根拠が無い・・・
(「恵林寺 竹垣」でググったが、それらしい資料は出てこなかった)
今恵林寺に行っても、昔(っていくら何でも、「昔すぎる」ような気が・・・)はどうだったのかなんて、資料が無いと思うし・・・
まあ、当時の防衛対策として、その可能性は結構高かったような気もするんだけど・・・
断定してしまうには無理があるなあ・・・
そもそも、甲斐(山梨県)は山国だから、竹林も相当多かったんだろう、なんて勢いで書いてしまったけど・・・

一度、休みの時にでも、恵林寺に行ってこようかな・・・

ここで皆さんにお願いですが、当時(天正年間)恵林寺やその周辺に、竹垣で覆われていた場所が存在する、という情報をお持ちの方は、BBS等にカキコをお願いします。m(_ _)m



うーむ、しかし、それ以前に深読みしすぎか?(^^;)

3.いついつ出やる

「いつになったら出ていけるの?」という意味で、要は「信長を倒すタイミングはいつなの?」という話だと私は解釈した。
(あるいは「豊臣家をいつ滅ぼすの?」という意味もあるか?実際、大坂冬の陣の前に、豊臣恩顧の大名が、次々に他界しているし・・・)

4.夜明けの晩に

「夜明けとも言える晩」という意味がある。
これは、「午前4時くらいの時間帯を指す」なんて、ウィキペディアに書いてある・・・
この時間帯を指したのかどうかは分からないが、本能寺の変が1582年6月2日早朝に行われたとすると・・・

ああ、やっぱし・・・

「信長を討った時間」を指さないか、これ・・・?

5.鶴と亀がすべった

これは「鶴と亀が統(す)べた」と取れる。
鶴と亀と言えば、日光東照宮の屋根にある像を指す。
で、東照宮には徳川家の家紋(葵)と、桔梗紋(明智家の家紋)が大量に書かれてあって、しかも陽明門には、桔梗紋を付けた武士の像があったりするのは有名な話である。
しかも、日光には「明智平」(日光第二いろは坂を華厳の滝方面に行った場所)という地名まである・・・

つまり、鶴及び亀に象徴される為政者を指しているなら、これも光秀(天海)を連想させるだろう。
あるいは「天下を統一した人」ならば、実は次の項目になるが・・・

6.後ろの正面だ〜れ

前項からの解釈だが

「天下を統べた人は後ろの正面にいるんですが、それって誰でしょう?」

明智光秀の生れた地(大体、岐阜県南東部)から日光(の方向)を見る。
これの「後ろの正面」とは、大阪府岸和田市を指す。
岸和田市と言えば、明智光秀の肖像画がある「本徳寺」がある。
光秀が開いた寺だが、ここには「慶長4年(1599年)」に寺を開いたと記されている。
肖像画には、光秀は出家して「僧になった」と書かれていたりする・・・

要は、光秀が1582年に死亡していたなら、本徳寺も建てられなかったわけだ。

つまり「天下を統べた人」→「後ろの正面」→明智光秀(南光坊天海)

少々解釈が強引な所があるし、もしかしたら「偶然」というのもある。
例えば、天海が死んだのは1643年で、仮に明智光秀だとしたら、死亡時の年齢は、何と116歳!(数え年)
さすがに、当時の寿命とかを考えると、無理がありすぎるような気がするが・・・

例えば、光秀が建設した丹波亀山城の周辺には「慈眼寺」という寺がある。
南光坊天海の戒名は「慈眼大師」である。

光秀を祀る寺と、天海の戒名が同一・・・

うーむ、偶然かもしれない。
ただ天海が「オレは明智光秀なんだよ」というサインをあちこちに残したなら・・・

うーむ、偶然か?
ロマンの無い言い方をすると、実は「黒衣の宰相」と言われる天海は、実は明智光秀のファンで、光秀の武将としての器量等を尊崇していて、少しでも光秀にあやかろうとしたから、やたらと「明智(光秀)」にこだわったとか・・・?
有名な話だが、徳川家2代将軍の秀忠には「秀」の字、3代将軍家光には「光」の字。
両方足すと「光秀」になる。
つまり、家康の覇道に一番貢献した人(家康を影で操ったり、徳川家の政策担当となって、実質的に天下を統べた人)は、光秀なんですよ、というのを、後世に残した・・・

可能性は、十分あるかもしれない。
(あるいは、秀忠の「秀」は、当時の権力者の「秀吉」からもらっていて、家光の「光」については、元々明智家家臣だった春日局が、尊敬する光秀にあやかって、こういう名にしたとか・・・)

うーむ、偶然なのか・・・

何か、書けば書くほど、訳が分からなくなってきた。
今日の所はここまでとしよう。

最後に、ここまで読んでくださった各位には、厚く御礼申し上げたい。

ご静聴、ありがとうございました。



By greathelp


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